2011.10/06 [Thu]
神谷和宏『ウルトラマンと「正義」の話をしよう』
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★★★☆☆
『ウルトラマン』シリーズに目を向けた時、そこにはウルトラマンと地球平和という“善”があり、侵略者(=怪獣、異星人)という“悪”がある。しかし、その“善”は絶対的に「正義」なのだろうか? その“悪”は必ず倒されるべきものなのだろうか? シリーズ生誕から45年を経て今、『ウルトラマン』が伝えたかった「真実の正義」を説く。
著者は国語の授業の題材に「ウルトラマン」を取り上げることで有名な北海道の中学教師。私もテレビなどで特集を組まれているのを何度か観たことがあります。
世間一般に勧善懲悪のヒーローとして捉えられているウルトラマンも、実際にはそんなに単純に善悪が割り切れる物語ばかりではないし、すべての行いが絶対的に正しいわけでもない。時には自らのエゴで動くことも、自分の判断に迷うことも多々ある。それじゃあ、善悪ってどこで区別がつくの? 正義って何なの? というのが本書の概要です。
水のない星に置き去りにされた宇宙飛行士が怪獣化したジャミラを真実が表に出ないうちに始末しようとする「故郷は地球」(ウルトラマン)、現在の地球人は原住民族ノンマルトから住み処を奪った侵略者であると語られる「ノンマルトの使者」(ウルトラセブン)、善良なメイツ星人を異質な存在への恐怖から集団暴行で殺してしまう「怪獣使いと少年」(帰ってきたウルトラマン) etc……。怪獣や宇宙人よりも、本当は人間の方が卑劣なのではないか。ファンの間では有名なエピソードばかりですが、この手の作品にあまり明るくない人にとっては曲がりなりにも子供向け番組――それも、かの有名な「ウルトラマン」でこういった社会派な話が作られていたことは結構、衝撃なのではないでしょうか。
昭和ウルトラに限らず、『ティガ』や『マックス』『メビウス』といった平成作品も交え、そこで展開される様々な事象を踏まえて最終的に“非戦”を訴えるという流れは実にスマートで読みやすかった。
そういう意味では理想はやはり『ウルトラマンコスモス』なんですよね。怪獣を倒すべき存在ではなく地球で共に生きる仲間として、守られるべき存在として描き、究極の敵であるカオスヘッダーとも和解という手段をもって解決する。『ティガ』の「怪獣動物園」「出番だデバン!」で投げ掛けられた“怪獣との共存”が『ダイナ』でハネジローのレギュラー化という形に引き継がれ、続く『ガイア』ではウルトラマンだけではなく地球怪獣も地球の危機に立ち上がり、根源的破滅招来体と戦う。そのバトンを受け取って初めて『コスモス』があります。
『コスモス』でそこまでやってしまったからこそ、その次の『ネクサス』では怪獣を不気味で凶悪な人間を捕食するモンスターと設定し、その劇薬をもってこれまで創り上げてきた怪獣像を一度リセットするしかなかった。“怪獣と闘わないこと”という判断はそれだけ大きなものだったのです。
それはそうとて。個人的には前述の「故郷は地球」や「怪獣使いと少年」といったガチで社会派な回を授業で取り上げ、リアクションペーパーを書かせるのはあまり賛同できなかったりします。国語のテストなどではよく「この作品で作者の言いたかったことは~」みたいな問題が出ますけど、それってある程度答えありきなんですよ。
「故郷は地球」を観て地球に戻ってきたジャミラが圧倒的に悪いだとか、「怪獣使いと少年」を観てリンチを行った民衆は無実だとか、「悲しみの沼」を観て改造された方が馬鹿だったんでしょ、なんて言う人は殆どいないと思うんです。これらのケースは完全に倒される側が被害者で(ムルチの扱いは措いといて)誰の目に見ても人間側に非があるのは明らかです。大多数の人間の意見の方向性が決められていて、それ以外の意見を極めて述べ難い状況ですよね。それでもジャミラは葬り去られるべきだった、と断言するのはちょっと躊躇われます。これって著者が危惧するところの大衆世論の形成に他ならないんじゃないかと、読んでいて感じるところがありました。
どうせだったら『ガイア』の「天の影 地の光」でアグルが地中に眠っていたゾンネルの命を犠牲にして地球を救った件だとか、映画『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』にて純粋に子供を想って侵略に乗り出したバルタン星人を倒したコスモスというような、より簡単に善悪の判断がつき辛い事例を用いた方が生徒の視点にももっと自由度が増してさらに議論が深まると思うのですが。
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