2015.06/14 [Sun]
映画『チャッピー』

★★★☆☆
2016年.犯罪多発都市、南アフリカ・ヨハネスブルグ。ロボット開発者のディオンは、学習機能を備えたAI(人工知能)を搭載した世界でただ一体のロボットを極秘で製作。“チャッピー”と名付けられたそのロボットを起動させると、まるで子供のように純粋な状態であった。だが、チャッピーはディオンとともにストリートギャングにさらわれ、そのAIにはギャングによって生きるための術が叩き込まれていく。 (2015年 メキシコ・アメリカ)
人工知能をインストールされ自我を芽生えさせた1体の対凶悪犯罪用警官ロボットが、街のギャングによって強奪され、開発者の意に背き育てられてゆくSFアクション作。対象年齢引き下げのため一部ゴアシーンを削除した自粛版を公開という配給側の対応で物議を醸したSF映画、『チャッピー』が近場で早くも公開終了が間際だったので観てきました。
話しによると件の残虐シーン自体はほんの数秒のものらしく、確かに観ていて「あ、ここだな」と気付きはするものの、取り立てて問題があるレベルでのカットはありませんでした。というか、それ以外の部分でもなかなか痛々しい場面があるにはあるのでわざわざそこだけ削った意味が正直わからないのですが、よりにもよって人間とロボットの垣根と命とは、意識の在り処、魂の有無を問うた作品で人体の欠損描写はダメ、ロボなら腕を引き千切られてもOKと線引くのは何とも皮肉と言いますか。考えさせられるものがありますね。
『第9地区』の監督だけあって本作もまた洗練されたSF映画というよりも非常に泥臭く、無法地帯の一本向こうでは富裕層が優雅に生活を送り、すこぶる治安の悪い南アフリカの抱える現実と暗部をSF的ガジェットを用いて擬似的に描く社会派要素の強い作風です。
チャッピーの生みの親であるディオンは犯罪を取り締まる体制側の功労者であり、成功者。一方、育ての親であるギャングのニンジャ、アメリカ、ヨーランディは社会の最底辺で生活し、犯罪行為は日常茶飯事な状況に身を置いています。
チャッピーに一流のギャングスタたる教えを説き、強盗行為に利用するのは勿論、時にはその命すらさらさせて“現実の世界”とは何たるかを叩き込むニンジャは一見して悪人のようでもありますが、仲間を失えば涙する心を持ち、アメリカはアメリカで傷付き戻ってきたチャッピーを心配して修理し、労ったりもする。赤ん坊同然であったチャッピーを庇護するヨーランディにこそに隠れがちながら、最低最悪のクズ野郎にも確かに善なる部分が存在する。
反対に一般市民の代表格ともいえるディオンに目を向けると、基本的にはチャッピーの健全性を伸ばすために張り切り、心配しつつも、自分は創造主であるから敬えと当然のように宣い、“研究成果”を確認するためには嬉々としてギャングの元にも赴くある種の自己中心さ、エゴイズムを覗かせます。
純粋な心のままに善と悪、両方の行為を分け隔てなく吸収して成長していくチャッピーの描き方にしても同様で、こうした善悪の二元論に割りきれないところ、主人公格の人間を決して清廉潔白な存在では済ませないところもこの監督の特徴でしょう。
とはいえ後半――特にクライマックスの戦闘シーンに入ってからのニンジャの変わりようはやや唐突でもあり、回想場面での補完が入るとはいえその人間性をしっかり描き切れていたかというと微妙なところ。ヨーランディとチャッピーの語らいを陰で見守るニンジャの描写がちょっと後出しっぽく見えるんですよね。
クライマックスの戦闘も、会社としても警察としても大きな決断なハズなのにヒュー・ジャックマン演じるディオンのライバルに独断で好き放題やらせすぎじゃない?との疑問も沸きます。あれだけ騒ぎになっているのだから、せめて監視役ぐらい付けるでしょう。
また、よくある手法ではあれど冒頭の導入部にドキュメンタリーちっくなニュース映像を置き、南アフリカの社会不安をSFエンタメに落とし込む構造、スラムでの戦闘、ラストの展開などは出世作となった『第9地区』を強く想起させ、良く言えば作風、悪く言えばワンパターンに陥って抽斗のなさを露呈した感があるのも気になります(『エリジウム』は未見)。
内容面の満足度は保証できるとして、今後に向けて一抹の不安も残る。単体の映画としてこれ1本だけを観た場合と、ブロムカンプ監督の他の作品を知っているのとでは作品に向ける評価も変わってくるのではないでしょうか。
しかし、劇中のニンジャなるキャラクター名に「なんじゃそりゃ?」と思ったら、ヨーランディと共に役者さんの名前そのまんまなのね。いや、どちらにしても「なんじゃそりゃ?」って感想に変わりはないんですけれど。おかげで主題歌の「Enter the Ninja」を延々とヘビロテ中ですよ(関係ない
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